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ほんの独り言
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1996-09-28
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6KB
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62 lines
ほんの独り言。長いし、別にそんな重要なことを書いてあるわけでもないので、読まなくても支障はないよ。
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近頃はMacintoshにも比較的アクションゲームが増えてきて、うれしい限り。
Macintoshには、アクションゲームに不可欠なスプライトがない。スプライトを実現させるために、みんな苦労している。キー入力もお馬鹿さん。Macintoshは、はっきり言って絶対にアクション向きではないのに、みんなよく作る。
ところで、アクションゲームの作者のドキュメントを読んでいると、スプライトとともに、何かとある単語が目に付くような気がしてならない(本当に気のせいかも知れないけど)。その単語とは「MSX」だったりする。
MSX−FANというMSX専門誌(すでに休刊(T~T))にプログラムを投稿、掲載された作者の内、何名かはMacintoshでソフトをすでに発表しているようである。なんでこんなにゲームの作りづらいマシンに乗り換えたんだかと、感心したくなる。・・・まあ、かくいう私もMSXユーザ(元、ではない)であるけど。
ところが、このMSXというマシン、こんな時代遅れの8ビットマシンなのに、思い入れの深いユーザは少なくない。恐るべきことにfMSXなるソフトウエアエミュレータまで存在している。マシンとしては引退済み。現役当時のライバルマシン、PC-8801SR、X1、FM-7はすでに影も形も見えない。88は98に吸収され、X1とFM-7は消滅した(X68k、TOWNSはユーザ層が基本的に違う)。ファミコンはエミュレータが生き残っていた。なのに、コンピュータの話が出て、MSXユーザが見つからない方が少なかった。ある後輩(MIPS、君だよ)に至っては、MSX−FANで3、4回も採用されたと教えてくれた。
MSXというマシンは、はっきり言ってそれほど高機能なマシンではない。むしろ、はっきり言ってその機能は貧弱きわまりない。メモリに至っては、最小8k!! 画面をスクロールさせるためのメモリバッファ確保なんざ、どーあがいても無理である。事実、MSXで画面をいかにしてなめらかにスクロールさせるかは、技術力のステイタスでもあったと僕は思っている。
・・・こんなマシンなのに、未だにユーザが思い出すのは何故か?
それは、MSXが「楽しいマシン」であったことによると思う。古くからのMacintoshユーザにわかりやすく説明すると、MSXとは、HyperCardの様なものだったのだ。趣はかなり異なるけれども。
MSXはスロット、メモリマッパ、VDPと複雑怪奇なシステムを有し、様々なテクニックが存在した(ScreenMode 1.5とか)。見た目とは裏腹の、ユーザの努力にマシンが答える、すさまじいポテンシャルを持ったマシンだったのだ。コナミの様な会社がそのポテンシャルを極限まで引きずり出し、ユーザがその極限をめざしてプログラムを書いていた。
僕は日本の工業製品みたいなソフトの作り方をする、MicroSoftもビル・ゲイツも嫌いだけど、MicroSoft X、すなわちMSXだけは好きだ。
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さて、ここで僕の今のメインマシン、Macintoshを振り返ってみた。
僕がMacintoshを買ったのが3年前。買った直後、ソフトにユーティリティばかり多くて正直なところ辟易した。ツール、ユーティリティは多い。でも、それで作ったものはどこにあるの? HyperCardのスタックには感心させられたけど、日本人の作ったスタックを探すのは大変だった。
ユーティリティを使って、いろんなものを作った。テクスチャー、リソース、アイコン。最初は面白かった。でも飽きた。
そして、Macintoshでプログラミングをして思った。「つ、疲れる・・・」
やっぱり、よく分かっていないマシンでのコンパイラは疲れる。コンパイルしないと動作が分からない。インタプリタは遅いけど、いい加減にプログラムが書けた。
オブジェクト指向が広まるにつれ、「つれづれなるままに」プログラムが書けなくなった。オブジェクトは最初の設計が重要だ。後で「そだ、ここなおそー」とか、適当がやりにくくなった。
そして、Macintoshのユーザインターフェイスはプログラマに必要以上の努力を強いる。低レベルソフト、というジャンルがあるが、Macintoshではそもそもこの概念は通用しない。Macintoshは高度なユーザインターフェイスを必要とし、低レベルを許容しない。低レベルのユーザインターフェイスでもかまわないときでも。
結論。Macintoshは面白くなかった。今までは。
Macintoshユーザが増え、ソフトが増えた。ユーティリティではなく、インタラクティブ性を備えたソフトも増えた。だから、近頃のMacintoshユーザの増加には感謝している。
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Macintoshユーザの増加を、「メジャーになっていやだ」などと言う人もいるようだ。しかし、コンピュータにとって、「マイナー」「希少性がある」と云うことは「役に立たない」と同義語に近い。メジャーすぎることによる弊害はむろんさけなければならないが、マイナーであることに満足するのは退廃だと思う。
趣味としてのコンピュータは、創造的でなければならない。どんなものを作るにせよ。
なぜなら、コンピュータは自身では何もしないからだ。積極的にユーザーがコンピュータに働きかけることこそが、コンピュータを使うと云うことであり、現在のコンピュータが手続き型のコンピュータである以上、手続きを与えることがコンピュータに対する働きかけだ。
そう考えていけば、コンピュータを趣味とすることは、与えるべき手続きとその基礎構造を創造することを、趣味とすることであるということができる。
そして、ユーザーが創造的である限り、そのコンピュータは絶対マイナーにはならないはずなのである。
/* ------------------------------------- */
近頃は特に、創造的でないユーザが増えたような気がする。仕事で渋々使う人はまあ仕方がない。問題は、コンピュータを車のように扱う趣味をもった人である。
コンピュータは車ではない。ときどき思う。4、5年ほど前からだろうか。マシンパワーを要求するソフトが増え、マシンパワーがステイタスとなり始めた。
強力なCPU、広大なメモリ、アクセラレーション。強力なマシンを持ち、最適化とはほど遠い重たい統合ソフトや、うっとおしいアニメーションをちょっと動かしてみせて、「どうだうちのマシンだとこんなに軽いんだぞ」とやる。新機種の発売に一喜一憂し、ベンチマークに固執する。
これらは、以下のように置き換わる。パワーのあるエンジン、サス回りを直し、ターボを乗せる。パワーのあるマシンで峠を攻めにいく。新車種の内容に一喜一憂し、スペックに固執する。
しかし、はっきり言ってアクセラ屋より、走り屋の方がはるかにましである(排気音を愛でるあの不可思議な感覚を除けば)。走り屋には独特の美学と、マシンを操るテクニックがある。アクセラ屋には何もない。当時としては速いマシンがあるだけである。
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つまりさ、みんな、なにかつくろうよ?
T.N.P.